くらしのたね

MUSTな入浴グッズ:馬毛のボディブラシ


 実家を巣立ってから7年間、私の住まいにはお風呂がなかった。北風に凍えながら、だらだら汗を流しながら、遠い銭湯に歩いて通った。若かったあの頃、私がイチバン欲しかったのは自宅のお風呂。銭湯ではめいっぱい長湯をした。どんなことをして過ごしたかというと、人間観察をしていたのである。他人の会話に耳をそばだて、彼女たちの暮らしぶりをあれこれ想像していると面白くて、あっというまに時間がすぎた。2時間近くいたこともある。

 銭湯で出会った忘れられない人がいる。粋筋と思われる美しい女性が私の隣に座った。その又隣に座る人は彼女と既知の間柄らしく、ふたりの会話に聞き耳をたてていると、推測した通り花柳界の女性で、58歳の誕生日を迎えたばかり。《エッ58歳?》24歳だった私は驚いて思わず彼女を凝視してしまった。美肌である。気づかれないように観察していると踵も肘もツルツル。これで58歳?

 それだけでも驚きだったのに、浴槽から戻った彼女が手にしたものは、なんと亀の子タワシだった。器などのひどい汚れをこすって落とすアレである。タワシに石けんをつけ体の隅々まで洗っていく。そんなところ痛いでしょ、と思われる部位までゴシゴシ。そして最後にタワシを当てたのはなんと顔であった。美しいうりざね顔をゴシゴシ。《美しさの秘密はタワシ?》そう思った私はタワシを買ったが、痛すぎて断念。美肌作りには試練が必要であることを知った。

 10年ほどたったある日、デパートで催されていた「江戸工芸品フェア」で、馬毛のボディブラシを目にしたとき、《江戸→粋筋→銭湯で会ったあの人→美肌》そんな幻想がよみがえった私。馬毛のブラシを買った。その日から30年余りの間、いつも馬毛ブラシで体中を洗っているが……私の肌は一向に美しくならない。《肌はやっぱり天性のもの》なのである。しかし、馬毛ブラシで体を洗うと「清潔になった」という達成感が生まれて快感。もはや軟弱なブラシでは物足りなくてイライラする。あまりに馴染みすぎて、このボディブラシは旅にもお連れしたいほどの入浴グッズになってしまったのである。


ボディブラシ



 

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プロフィール

こぐれひでこ プロフィール

1947年埼玉県生まれ。
イラストレーター。
デザイナーとして活動後、
『流行通信』での連載がきっかけとなり、イラストレーターに。著書には、「食」「暮らし」に関するエッセイも多く、毎日の食事を公開しているホームページ「ごはん日記」は2000年より連載中。読売新聞の「食」に関するコラム「食悦画帳」は2004年より連載中。著書は『こぐれひでこのおいしいスケッチ』(新潮文庫刊)、『小泉今日子×こぐれひでこ 往復書簡』(角川マガジンズ)